それを交わしたのは、たしか幼子が声を聴けるようになって直ぐだ。
あの日の事は今でも鮮明に思い出せる。
体を駆け巡るのは歓喜の奮え。
これで、名実共に主になったのだと。
ようやくこの力を貸し与え守ることができるのだと。
貴女が我らの主であることが、至宝となった日の事だ。
*****
空は茜に染まり、もうじき日の暮れる時間帯。
西北の島国、その最果ての島にある平屋建ての庭で佇む影が一つ。
小柄なその影は腕に白いものを抱え、静かにそこにいる。
平屋の軒では小柄な影同様静かに、それを見やる一組の男女。
小柄な影――レイナはそんな男女を視界の端に、そっと地面へと顔を向け。
「げつえい」
ぽつりと名を呼ぶ。
その言葉に呼応するように蠢くのは、レイナの足元にある影。
影はゆらりと揺らめき実体となると、獣の姿を形作る。
影のように漆黒の、大きく裂けた部分が口であろうとしか判別のできないそれは。
ゆっくりと切れ目の両端を持ち上げた。
≪ようやく…。この時を、待ちわびた≫
「……本当に、いいの?」
≪是≫
影の獣(姿からして狼だ)から発せられたであろう声が響き、レイナは本当にいいのかと言葉をかける。
しかしそれに影狼――月影は一言答えるだけ。
その返答を聞いたレイナは、目を閉じひとつ深呼吸をする。
「わが名はレイナ、せいれいとけいやくせんとする者。大いなるやみのしんえんより生まれしものよ、
わが力をもってその名をしばる。われに力をかしあたえよ、――……。」
拙い声で厳かに唱えられたそれは、契約の詠唱。
レイナが最後に月影の真名を呼ぶと、月影の額部分と少女の胸元に光を帯びた同様の紋章が浮かび上がる。
浮かび上がったそれは契約印であり、その精霊との契約が無事なされた事を示す。
数秒浮かび上がっていた契約印はすぅっと薄くなり完全にその姿を消した。
「けいやく、終わった?」
≪是≫
「あらためて、よろしくね」
≪……≫
終了を確認したレイナが笑って言うと、月影はひとつ頷く。
かわらないね、と言ったレイナは、先ほどからずっと腕に抱えていた白いものを見やる。
「ちー?」
「……」
腕に抱えられていた白いものは、白九龍だ。
普段から少女の傍におり、“ちーちゃん”と呼ばれ仲良くしているそれは今現在むすっと不機嫌そうにしている。
「どうしたの?」
「……」
何が不満なのか白九龍は幼レイナの腕の中で不機嫌なまま、幼子の問いかけに答えるつもりはないらしい。
そんな翼竜の様子をじーっと見ていたレイナに、幼子らの様子を伺っていた女性が声をかける。
「レイナ、いらっしゃい」
「母上」
女性――母親に呼ばれたレイナは素直に近づく。
近づいてきたレイナを母親の隣に腰を下ろしていた男性、レイナの父親が抱き上げその膝に乗せてやる。
「先ずはおめでとう、ですね。ちゃんと契約できてよかった」
「うん。これでげつえいとずーっとおともだちなの」
「そうね」
契約の意味とは少々ずれているが、まあいいだろうと両親は笑いながら幼子の言葉に頷く。
そしてレイナの頭を撫でてやりながら、幼子の腕の中を見やって言う。
「レイナ、ちーはいいのですか?」
「ちー?」
母親の言葉にレイナは首を傾げる。
何がいいのだろうか、といった表情のレイナに2人が苦笑を漏らす。
「ちーも、あなたとずっと友達でいたいのでしょう」
「ちーとも契約してやってはどうだい?」
「……けいやく、したいの?」
「リュィ」
両親の言葉に少し考える様子を見せてレイナが問うと、変わらず不機嫌そうな様子ではあるがようやく白九龍が反応を示した。
どうやらレイナの中で月影との契約、それだけで事が完結していたのが気に入らなかったらしい。
反応を示した白九龍の姿に頷いたレイナは、再び契約の詠唱を唱える。
次に呼ぶのは白九龍の名。
こうして幼子は、生涯を共にする己のガーディアンを手に入れた。
ようやく声が届いたと歓喜したのは、さていったいいつの事だったか。
記憶に残るのは、幼い時と木漏れ日である。
*****
チチチ……と、常なら聞こえそうな程天気の良い中。
木漏れ日を提供する木々の枝には鳥ではない生物たちが集まり、ある一角を見つめている。
鳥ではない生物――精霊たちの視線の先には巨大な亀と、本来ならこの場にいることなど滅多にない人間という種。
そんな人間の中でも特に精霊たちが見つめているのは、陽に煌めく金色の髪を靡かせ元気に動き回る幼子――レイナの姿。
大空を切り取ったかのような碧眼が見つめる先には大きな猫か小さな犬ほどの体躯をした白い翼竜がいる。
「ちー!」
「リュリュィ!」
レイナは“ちー”と言いながら白い翼竜を追いかける。
当の翼竜はというと、楽しそうに幼子の手が届くか届かないかの位置を幼子のペースに合わせて飛んでいる。
そんな1人と1匹の様子を少し離れた場所から見守るのは1組の男女と大亀。
≪ほんとうに、レイナは元気じゃのぅ≫
「ふふ。やんちゃ盛りで毎日大変ですよ?」
≪子どもというのはそれくらいがちょうどいい≫
人の身の丈より遥かに高い背を持つ大亀は、己の傍に座る女性となるべく視線が同じになるようにとその頭を地につける。
そして周囲に優しく響くのは大亀――翁の声。
空気を振動させ響いたそれが、周囲に生える木々の葉を揺らす。
木の葉を揺らしたそれは1匹、また1匹とこの場へ精霊を集める。
こんにちは
来ていたのね
待っていたよ
ちい姫は白九龍と遊ぶのに夢中なのね
人の言葉とは決して違う、音。
声なき声で話されるそれは“聞く”力を持つ男女と、同族たちにはしっかりと聞こえている。
しかし未だその力が未熟なレイナには聞こえる声はわずかで、翁や月影と言った力の強い精霊の声しか聞き取れない。
だから、精霊たちはいつも早く声が届けばいいと祈っている。
「……?」
と、不意に白九龍と戯れていたレイナの動きが止まる。
その様子に幼子の様子を伺っていた者たちは不思議に思う。
どうしたのだろう
何かあったのか
怪我でもした?
「レイナ、どうしました?」
「うー…」
未だ届かない精霊たちの声を代弁するように、翁の傍にいた女性が声をかける。
首を僅かに傾げ、優しい黒の髪が肩から滑る落ちる。
「母上」
声をかけられたレイナは振り返り、己を呼んだ女性――母親を呼ぶ。
「どうかしたのですか?みなが心配していますよ」
「なにか、聞こえるの」
「なにか…ですか」
「うん」
母親の言葉に頷いて、幼子は周りを見渡す。
見渡す先に見えるのは、両親と翁と精霊たち。
聞こえる?
聞こえたのかな?
ようやく届いた?
周囲にいた精霊たちの声が弾む。
その声はひとつふたつと波紋のように広がり、全体へといきわたる。
「……こえ?」
コトリ、と首を傾げ幼子は耳を澄ませる。
そうすれば、僅かに聞こえてくる多くの声たち。
それは少しずつ大きくなり、鮮明になり。
「せいれい?」
まだフィルターを通したかのようにくぐもってはいるが、今までとは違い様々な声が聞こえる。
両親と翁と、精霊たちの奏でる音しか聞こえなかった空間が。
今は様々な声に溢れ賑やかになっているのだ。
届いた!
ようやくだ!
聞こえるようになったのね おめでとう!
ちい姫、ちい姫
遊ぼう
精霊たちの喜びに、木々も呼応するかのように音を奏でる。
レイナはそんな精霊たちをぐるりと見渡し、しばし唖然。
これ程にも声が溢れていたなど知らなかったのだから当然か。
「みんなの声、だったのね」
「そうよ。みんな、あなたに声が届くのを楽しみにしていたのですから」
「そう…だったんだ」
寄ってきた精霊たちに囲まれて、幼子は届いた声に顔を綻ばせた。
遊びに誘う声にゆるゆると口端が上がっていく。
「うん。いっしょに、あそぼ」
最上級の笑顔を見せて、レイナは言う。
これからは、たくさんの精霊と戯れる幼子の姿が見れるのだろう。